正しい人の根は揺るがない
箴言12:1-3には次のように記されています。
“1 訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者は間抜け者。
2 善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。
3 人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。
1節の「訓戒」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ムーサール」で、原義は、「懲らしめ」で、叱責、小言、忠告、教訓、戒め、命令、指示、教育、規律、訓練、鍛錬、・・・等の意にも用いられます。
1節の前半部分を、
新共同訳と聖書協会共同訳は、“諭しを愛する人は知識を愛する。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“教えを愛する人は知識を愛する”と訳し、
口語訳は、“戒めを愛する人は知識を愛する”と訳しています。
リビングバイブル訳は、“人の言うことを聞く気がある人は、知識を得ることができます。”と訳しています。
ソロモンがリビングバイブル訳のような思いをもって書いたのかどうかは分かりませんが、聖書に記載されていることを鑑みると、神様からの、教え、訓戒、諭し、等と考えるのが妥当ではないかと私は思います。
KJV訳は、命令、指示の意で訳し、NIV訳は、規律、訓練、法規の意で訳しています。
確かに、神様からのご命令や、指示、法規、規律、訓練等を聖書から学ぶと、神様がどの様なお方であるのか、という観点からの神知識を増やすことになると思います。
1節後半部分を2017は、“叱責を憎む者は間抜け者。”と訳しています。
「叱責」と訳された語のヘブライ語原語は、「トーカハト」という語で、懲らしめ、せっかん、矯正、叱責、小言、等の意に用いられます。
「トーカハト」を新改訳は「叱責」、新共同訳・聖書協会共同訳・口語訳・フランシスコ会訳は、「懲らしめ」と訳しています。
「間抜け者」と訳されている語のヘブライ語原語は、「バーアル」で、焚きつける、(人が理性を欠いて)獣のような、野蛮な、愚かである、馬鹿げている、・・等の意に用いられます。
「バーアル」を、新改訳は「間抜け者」、新共同訳は「愚かだ」、聖書協会共同訳は「愚かしい」、フランシスコ会訳は「ばか者である」、文語訳は「畜(けもの)のごとし」と訳しています。
現代人の中には、聖書の教えは古い、という人たちもいますが、主の教えを蔑(ないがし)ろにする者を、主は、けものの如し、とご覧になっているようです。
2節には、“善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。”とあります。
「恵み」と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーツォーン」で、喜び、親切な行為、利益、・・等の意があります。
前半部分を、新共同訳は、“善人は主に喜び迎えられる”と訳し、聖書協会共同訳は“善良な人は主に喜ばれる。”と訳しています。
リビングバイブル訳は、“神様は正しい人を祝福し、悪人を罰します。”と訳しています。
日本の多くの人は、善良な人、正しい人というときに、対人的な観点からのみで考えるのではないかと思います。
しかし、天地万物を造られた創造者であられる神様は、対神的に正しくないと、正しい人とは決して言いません。
テレビの番組を見ていても、創造主を度外視して、人は、この様に進化してきた、等と当たり前のように言います。
よく考えてみると、それは、創造主であられる神様をひどく馬鹿にした話であり、甚だしく無礼なことです。
キリスト・イエス様を様々な宗教の教祖や神々と同列に置いたり、低くみたりすることも甚だしく無礼なことです。
2節の後半には、「悪人を罰します」(リビングバイブル訳)とあります。
創造主であられるまことの神を、神として崇めない人、救い主・主としてイエス様を信じない人は、すべて罰せられるのですから、その人たちは、対人的に人々から善人と言われていたとしても、神様の御目には悪人なのです。
世の裁き主は、エンマ大王ではなくキリスト・イエス様です。
ヨハネ5:22.27には、「22 ・・父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。27 ・・父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。」(2017)とあり、
この箇所をリビングバイブル訳は、「22父は、罪のさばきをいっさい子に任せておられます。27 ・・全人類の罪をさばく権威も下さいました。それもみな、子がメシヤ(救い主)だからです。」と記しています。
主イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことば〔御子の言葉は御父から聞いた言葉です(筆者挿入)〕を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24・2017)とも言われました。
イエス様の弟子の中には、御父の声を聴いた人達もいました。
マタイ17:1-6には次のように記されています。
“1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。
「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。”(2017)とあります。
3節には、“人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。
主を信じて、正しい人(義人)とされた人であっても、主に信頼し続けて歩まないと揺らいでしますことがあります。しかし、揺らぐのは木の幹や枝や葉のようなものであって、主キリスト・イエス様という土台に根を張った人の根は揺らぎません。主に根を張った人は、主の教えに従う人です。
イエス様は、山上の説教の最後の部分で次のように語られました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24-27・新共同訳)と記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがあなたにあって正しく歩むことが出来るようにと、御言葉を与えてくださっておられますことを感謝します。
あなたに信頼して、御言葉に従って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。